釣師たちに場所を提供しながら,人里離れた島の前の海に浮いている古くなった船で暮らす老人と,少女の奇異な愛を描いた映画 ▼人里離れた島の前の海に浮かんでいる古くなった船に,老人と少女が10年前から暮らしている。 ▼老人は,釣師を乗せることで生活していて,少女は,おじいさんを手伝っている。淫蕩な釣師たちから少女を保護する老人の武器は弓であり,普通の時には楽器として使われる。 ▼ある日,大学生が釣りにきて,少女を見て魅惑される。そして,老人が少女と結婚することを知った彼は,少女を陸に連れていこうとする。
sunairi: 「えっ」と声を出したくなるような映画です。その「えっ」は、いい意味なのか悪い意味なのか、結構、映画『息』からキム・ギドクが気になり始め、遡って見ていますけど、やはり『息』の様なバランス、狂気、そして色んな意味で整った映画は中々、『絶対の愛 - 時間』も良かったけど。この『弓』は2005年結構後期に作っている。これはびっくりした。初期の作品とばかり思ってみたからだ。やはり、『魚と寝る女』に比べるとかなり映画作りが旨くなっている、狂気といわんばかりの変体性が出てくるキャラクターの顔、行動と共に、『えっ』と信じがたいシーンに遭遇する。
それにしても主人公の女、ハン・ヨルムは『サマリア』に出てくる人、少し顔が東南アジア系だ。今回も不思議ちゃんで、爺さんに拾われたというか誘拐され、言葉も喋れないまま育てられる、18歳のなった時、お爺さんと結婚をすることになっていた。お爺さんはどういう切欠で海に住んでるのか?金がなかったのか、人生の復讐の為にこの女の子を生贄にしてるのか、と考えるうちに、女の子はある釣りに来た男の子に興味を持つ、同じぐらいの歳同士、好きあうが、必殺の爺の弓に身を震え上がらす事になるが、最後は女も外に出たいとの意思表示、あれだ爺が楽しみにしていた韓国の昔の仕来りの結婚式を挙げたあとわかれると言う事になる。
爺は嬉しそうに結婚式を挙げる、そして女が眠ったあと、海に飛び込み自殺、飛び込む前に空に弓を打つ。時間がたった後、若い男が女が眠っているのを見つける、女は寝ながらオーガズムを、その股座に爺が打った弓が落ちてくる、処女が失われた。なんとも「エッ」といいたくなるような展開と摩訶不思議。
『息』『時間』『うつせみ』などは現実の中に狂気が存在した、しかし『弓』の爺はキム・ギドクではないか?自分の欲望の為、映画を作り、一度作ったらもう失われるはずである、真実は?爺とはキムギドク?韓国の昔の仕来りの結婚式はキムギドクの母国韓国からの無視?そして若い女を閉じ込めているのは、キムギドクの映画に出たって有名になるはずがない女優や俳優、世界で有名になっても、キムギドクのレベルでは、中国のコンリーみたいな事にはならない。ただ映画俳優になったと勘違いするだけではないか。なぜならギドクの映画は淫らでしかないから。芸術とは前衛とは、女をその様な目でしか見ない男尊的な価値観が反映されているということでは?そんななんやかんらを静かな水の音と波の音と、あの弓を奏でる爺の音楽、マストに上がり信じられないような良くないシネマトグラフィーで爺が音楽を奏でる。今回のテーマはこれか?これも『えっ』だった。
最後爺は歳を忘れ、女を愛する為、見ちゃあいられないぐらい子供のようなり、自殺を失敗したり(「えっ」)、女を何回もたたいたり(寝るとき手をつないでもらえなかったから「えっ」)、そしてその爺のアップはなんか歳をとってしまった男の近くで見てはいけない深い悲しみ、人生の悲しみの様な物を感じました。これは「えっ」ではなかった。
最後、映画が終わると、『弓をぴんと張るといい音がする、その弓の様に生きたい』とのメッセージ、誰のメッセージやねんと思いきや、キムさんではないか、監督の。なんやそれ、あんさんの小言か。あんさんの教訓か?あの爺でのメッセージではなくて?何でやねん。なんか映画の内容と違っとりませんか?爺が自分を疑う物は弓を打っていくというのは、キムさんの................。
「えっ」
「えっ」 な、私のキム・ギドク・フェスティバル
鰐 (1996)
まだ見てない
ワイルド・アニマル (1997)
まだ見てない
悪い女~青い門~ (1998)
まだ見てない
魚と寝る女 (2000)
タイトル、状況、コンセプトは好きだったが、見たところ好きではなかった。
リアル・フィクション (2000)
まだ、
受取人不明 (2001)
これ初めて見たキムギドク、これでびっくりもう見るのやめようと思った作品。
前回の「ブラックブック」の批評の中で書いた、「春夏秋冬そして春」を手がけたキム・ギドク監督の作品です。この人の目の付け所、内容、其の事項が持つ社 会背景などはとても良いと思うんですが、結局作り方、あらすじの展開の仕方などがいつも強制的です。少しばかりとってつけたようなといった言い方が真っ当 な気がします。後で読んで判ったのですがこの映画70年代を物語ったらしいのですが、スタイル的に(とり方、ファッションなど)全く70年代と判らず、現在の社 会の状況かと思いました。この物語が繰り広げられる村(町)は貧困のどん底といった具合で、映画を見ながら現在の韓国もこんな場所があるんだなーと、偏見 をかもし出していました。でもこれは監督の演出失敗かな?ですね。日本に帰るとき飛行機の中で見た、昔の青春物語っぽくて、くさかったけど涙が出たリュ・ジャンハ監督の「春が来れば」でも韓国の田舎の貧困が目立った。韓国映画を見始めたばかりの僕は少しまたこれで偏見を持ってしまいそうになりました。知らないって本当に怖いですね。さて「受取人不明 」ですが、いろいろな状況を扱っています。貧困を生き抜く村人、子供のとき遊んでて片目を失い、其の見た目に苦しむ女の子、其の子を好きないじめられっこ の男の子、米国兵黒人との関係で出来た男の子を持ち、今でも其の黒人兵を待ち続ける若い韓国の母、其の黒人兵の息子は村にいる犬を殺し金を儲ける野蛮な男 の元で働くが、野蛮な男は其の黒人兵の息子の母と付き合ったいる。色々と複雑に交じり合い物語りはかなり早めにからからと展開します。まあ、其のスピード 感は気持ちいともいえるのでしょうか?芸術的な作品が持つじわーっとした、退屈感はありません。結構感情的な物語が繰り広げられ、米国人の兵士はアメリカに帰りたいのにそこにいなければいけないフラストレーションから片目の女の子を好きにな ります。米国ミリタリー病院で彼女は目の手術を受けます。其の子を好きだった男の子は、目の手術を受けたいがために兵士と付き合う女に幻滅します。しかし 彼女は本当は兵士を愛していません。兵士はどんどんバッドに入り、ドラッグをして...........ほらドラマチックでしょ。いろんなことがヘビーに起こったのですが印象はとても軽く、「あー良い映画見た」感は無かったです。終わった後、変な映画だったなーと思いながら監督名を見たらキム・ギドク監督でした。
悪い男 (2001)
まだ
コースト・ガード (2002)
まだ
春夏秋冬そして春 (2003)
これは凄すぎる
そして少し前映画館で見た「春夏秋冬そして春」を思い出しました。絶景な背景、湖の真ん中に浮かぶ禅寺を渡り舟を漕いで向かう和尚さんと小さい男 の子、霧が立ちこむ情景の中、少年の顔がアップになります。こう書くとよさそうに聞こえませんか?それがですね、少年の顔のアップの映像が何かおかしかっ たんですよ。少年の顔はお饅頭のように至ってかわいいのに、なんかカットとクロースアップが何か可笑しい気持ちを催させたんですね。あれーこの映画もしかして全然良くないかもって。その後は其の悪い予感が的中、少年は青年になり女体の誘惑から禅寺を去り、女性を殺しかえってくる、それを見た和尚さんは其の少年(青年)を育てた責任か ら自らを火で焼き死ぬ、少年(青年)は大人になり、禅寺に残り、自らを心身ともに鍛える。其の鍛え方がすごかったんです。体に石をロープでくくり山を登 り、氷の湖の上でヨガとカンフーをミックスしたようなエクササイズをする。其のときの音楽がまたすごいのって、ニューエイジ的な音楽の中、女性の演歌系の 叫びがバックで響き渡る中、大人になった青年は筋肉もりもりになり............もう其のシーンのイメージと音楽がかなりインパクトが強かった ので、物語の結論も忘れてしまいました。後で聞いたら大人になった少年、あのすごい猛烈な心身鍛錬を行っていた俳優は実を言うとキム・ギドク監督だったんですね。あれまー超ナルシスト!ご自身だったのですらー。
サマリア (2004)
まあまあ、画像が綺麗
sunairi: 援助交際というタイムリーな内容で多分、キム・ギドク監督も少し流行的なことをしようと思ったのでしょうが、何故か、女優のチョイスがあまり今風ではない。そのサマリアと呼ばれる女の子の顔が少し東南アジア系の顔だった為、今の韓国の女の子と言う設定が少し旨くいってないような気がした。もう少しすっきりの顔の切れ目の女の子だったらもっと今風ではなかったか?しかし、つまらない映画に良く有るめんどくさい話の展開、もうわかっているけど見なければいけないと言ったような物は全て綺麗にもぎ落とされ、シンプルな展開説明を入れない静かな雰囲気がとても見やすい。『アドレス・アンノウン』やら、『春夏秋冬そして春』みたいなとってつけた感はない。『息』の時の静かな展開の速さや、『うつせみ』みたいにピアノの音楽が寂しさを演出する感じで、この映画は進む。とても綺麗。女の子達の関係はとても同性愛のプラトニックなものです。一人がもっと好きで、一人は色んな男と寝る事が好きな女の子。二人で旅行に行きたいがため、売春を行っているが、寝る男男と感情移入してしまう一人に、女は嫉妬をする。しかし、セックスをすることで男性を浄化しというインドのパスミルダの伝説。少しこれは男性の女性に対するピュアなイメージの願望のあらわれ。最後に父が娘がどういった理由であれ売春をしていた事を知り、理解に努力し、寝た男たちを復讐し、娘と一緒に妻の墓に行った後、父は娘を放し飼いにする。見捨てると言うことだ。父は妻が死んでも一生懸命生きた。誰とも寝ずに、誰とも何のこともせずに。なのに娘はこんな事を、父は傷つき娘を見捨てる。これは女性に対するピュアでいて欲しいと言う欲望。所謂完ぺき主義では?もちろん父はもう結構来てる人だ。仏教や神の信念を娘の登校時に説くと言ったぐらいの激しいストイックな性格。だから故娘さえも許せないとは。少しびっくりする。少しこれは女性差別では?結構女性の結婚前のセックスに少し保守的な韓国のイメージが浮き上がったような気がする。(これは今でもそうか知らないが)。結構キム・ギドク監督、真面目で、ストイックで、理想が強く、そして混沌とした物を感じる。
うつせみ (2004)
うーん、前々回のリビューで書いた映画「春夏秋冬そして春」のキム・ギドク監督の2004年の作品です。2004年ヴェネチア国際映画祭で最優秀監督賞をとった作品です。これは、あれだけ「春夏秋冬そして春」で悪口を書いたのですが、「うつせみ」は結構気に入りました。映画は始まり、スマップとかトキオとも言っても可笑しくないジャニー系の俳優、ジェヒ(JaeHee. 재희)。ジェヒが扮するテソクは孤独の町の生活の中、人の家に勝手に入り、何も盗まず唯何日間か住み続け渡り歩く若者。大きなバイクに乗り、無言で(この 人は喋れない役?)、流離っています。この出だしは少しうーん、トレンディー映画じゃんと思い、 キム・ギドク監督だなーと思いましたが、なかなか最後まで見ると少し心にしみました。音楽のチョイスは「春夏秋冬そして春」にも言えるけど、ダサダサ。この監督本当に女性の叫び系のメロドラマチックな曲が好きですねー。時たまゆっ くりと流れるエリック・サティの『ジムノペディ』の様なのが一瞬流れます。ああいった感じの音楽をずっとバックに流せばもっといいのに、と思ったりもしま した。すると、突然女性の叫び系のメロドラマチックな曲に成るんですね。静けさが気持ちいいなーと思ったところで。ところで余談ですが、ジム・ケリーが出ている 「エターナル・サンシャイン」(Eternal Sunshine of the Spotless Mind)の音楽は、John Brion / ジョン・ブライオンというコンポーザーが作っていますが、この映画でよく流れるあのピアノの曲は本当に名曲だと思います。何階聴いても素晴らしい、ジムケ リーが其の時の彼女のタンジェリーンを呼んでいる時の感傷的なシーンを鮮明に思い出します。さてさて、少し疲れた顔が綺麗な女優イ・スンヨン 李丞涓 이승연 I Seung-Yeonが、愛が無い結婚の家庭で感情が果て無口になってしまった妻の役をします。映画開幕の時は野蛮な夫に顔を殴られ、ほほが一面酷い色に 成ってたりしますが、(こんな演出は少しまた大げさで一瞬あーあーキム・ギトク監督ー!と、思いがちでした)話は進み、イ・スンヨンの演じるソナの悲しげ な表情、そしてテソクと会い、徐々に恋に落ちていく様は、この二人の無言(本当に全く喋らないんですね)の演技の中で微かに波打つように来るんですね。孤 独であり純粋に生きるテソクの変な習慣、たとえば勝手に住んでいる人の家で、其の家の持ち主の洗濯をやってあげたりとか、それも洗濯機ではなく手で。とっ ても美味しそうな韓国料理(チゲやら前菜の盛りだくさんな所)をささっと作ったりなどと、中々この映画野中で色々な素敵な要素とし光ってます。しかし波乱万丈、激しいキム・ギトク監督であるから、アレーという様な展開はありますが、それが話の展開のよさのオブラートに囲まれ全く目立たなくなり、映画が終わった後は結構すっきり感と然るべき落ちた愛の好印象が残ります。二人の環境の雁字搦めな毎日、お互いの孤独の発見、結びつき、そして其の微かな愛が芽生え、それでも降りかかる苦境に耐え、最後はあっと驚かせるハッピー・エンディングがきます。うーん、これはやられたなー。キム・ギトク監督のほかの映画では激しく出すぎる鬼才さが、うまーく、バランスよく、美味しく出来あがっています。うーんトレヴィアン!ヴェネチア取ったの判るわ!
弓 (2005) まあまあ
絶対の愛 (2006)
いいです!
sunairi: キムギドクの映画は見やすい、よく有るつまらない映画の説明臭い状況の成り行きのじわじわ感が全くないのだ。ストーリーを語るのが下手と言うのだろうか?友達と見たらあちらこちらで『今のシーン変じゃないですか?』とか、『えっ!おかしい、今の!』みたいな言葉が連続。僕は結構慣れていて、普通に見てたのですが。僕としては変にじらされるよりさらりと物語に入ってくれるぶっきら棒さが気に入ってる。これはスタイルとしてだけど。話はいつも成るほどやっぱりキムギドクだと、思う。彼って結構トレンドとか意識してるかも。それとタイムリーな社会問題をかなり扱おうとしているところが、なんか芸術映画的な趣を感じてた僕は何故かがっかりした。キムギドクはいつもピュアな願望、その切望と、余りにも残酷な現実とのギャップに生まれる苦悩を描く。苦悩が気を動転し、思い込みが異常なオブセッションへと変わっていく。結構このパターンが多い。しかし友達も言ってたけど、結構男尊主義ですね、このau・teurと言う言葉、(強い創造的演出力を発揮する)映画監督と言う意味だが、au・teurとしての表現の自由を得た時、特に男性の作家は神の様なパワーを自分に感じるのではないだろうか?僕はこの自由を皆が働いているのに毎日が日曜日のような暇に感じパワーどころか、無力感を感じた。キムギドクはそう思わなかったんだろうね。彼はその暇と無力感をカリスマに変えたに違いない。いいのか悪いのか?でも見てしまう監督。
ブレス (2007) これが傑作だと思う。
砂入:久々に見ました、キム・ギドクの映画。少し『私たちの幸せな時間』を思い出しました。しかし、キムギドクの映画にいっぱい出てる女優、パク・チアはとっても狂気の顔。この人が死刑囚のために壁紙を持ってきて監獄を訪問、部屋をトータルコーディネイトで服も四季に合わせ装って、歌を歌うんですがその素人ののりのりの姿、一生懸命に声を張り上げてうたう音などがなんか非常に強い印象を与えました。本当に狂気と言う言葉が似合う感じでした。その感じがキムギドクの精神の行ったところを表す気がして、凄みとも感じました。伊丹重三と宮本信子と言った感じで、付き合ってるか結婚してるか知りませんが、キムギドクとパク・チアはそういった仲でしょうね。